ジュヌヴィーヴな毎日

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減反政策について思う

我が家は、ほんの10年位前まで、コメ作りをしていました。

ほとんど自家用ですが、

それでも農協に一部供出したりしていました。

小さいころは、種もみから苗も作っていたようです。

あまり覚えていません。

「苗田」という田んぼもありました。

田起こし、代掻き、田植え、草取り、稲刈り、脱穀。

今となっては、懐かしい思い出です。




いつのころからか、

「減反」という言葉が聞かれるようになりました。

我が家には、家から上の方にある「上の田んぼ」

もっと奥にある「山田」

そして、途中から始めた「下の田んぼ」とありました。

山田は本当に山の中にある棚田で、

これは小学生のころには、すでに耕作放棄することとなりました。

そうこうするうちに、上の田んぼが圃場整備に合い、

2~3年耕作できなくなりました。

しばらくすると、今度は下の田んぼ、

日当たりが良く、機会も入れやすく作業がしやすい、抜群の田んぼ、

これが、「減反」ということで、耕作できなくなりました。

そんなある時、

「平成の米騒動」が起きました。

1993年、フィリピンのピナツボ火山の爆発が原因で、記録的冷夏になり、

コメの生産量が激減したのでした。


その時の母が私に言った言葉が忘れられません。

「コメ不足だっていうのに、なんで減反しなければいけないの?」

方言で言ったので、もっとダイレクトで強烈に響く言葉でした。



調べてみると、

それまでコメの作付け麺先が増えすぎたため、

生産者米価を安定させるため、

コメの生産量を制限するため減反することになったとか。

無責任な大規模干拓、

日本第二の湖、八郎潟を干拓して作った大潟村の農家の方が、

作付け面積に関して国と長きにわたって争ったのも、

こういういきさつがあるからでした。


それはさておき、

あの時、今でも問題になっている「古米」=「備蓄米」はどうなったんだろう?と思います。

昭和50年代に、学校給食に米飯が取り入れられ始めたのも、

なんのかんのいって、本音ではこの備蓄米(古米)の消費が目的でありました。


さて。


このたび、「減反政策」が見直されることになりました。

私は、長い目で見て、大変いいことだと思っています。

誰もが信頼できる所で信頼できるお米を買いたいと思っている昨今、

本気になれば、どの農家も販売ルートは確保できますし、

何でもかんでも「保護される」一本だった、

日本の農業にも、一石を投じる事になると思います。

しかし、問題は農家の後継者不足です。

現に我が家が既に後継者がおらず、コメ作りを放棄、

実家の周りを見回しても、

子供が同居していたり、近居していて、農業を継いでいる家は数件、

生涯独身の男性も多数いらっしゃいます。

ですので、JAを主体とする営農の役割は、これからどんどん増えると思います。

そうなると、

広い意味での「大規模農家」の誕生になるのでしょうか。

農政についてもっと勉強したいな、と思います。


さて、この平成のコメ不足、

世が世ならば、東北地方は昭和大恐慌のころのような大飢饉になり、

餓死者が続出するところでしたが、

経済大国日本になっていて、本当によかったです。

タイの米価までが高騰して、タイに迷惑をかけたのが心苦しいです。

そして、当時の首相は、

初代パフォーマンス総理細川護煕さんでした。


日本を揺るがすような事件が起きるときに、

毎回自民党が政権でないことが、

ものすごく興味深いです。



今から思えば、この方には、国民全員騙されていたようなものですね。

いったい何がしたかったんでしょう。

謎です。

この内閣の黒幕も、悪代官でした。

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